あの日の広島 それぞれの想い 第三回

 平成30年7月6日。次第に強まる雨脚。当時高校3年生だった宮原和輝も、大雨警報により一斉下校の措置が取られ、早めに帰宅していた。自宅のある広島市安芸区矢野東の梅河団地にも18時05分の時点で避難勧告が出されたが、この段階では逃げようという声は上がらなかった。これまでも避難勧告が出されたことはあったが大きな被害は出ていなかった。また、梅河団地の裏山には同年2月に森林保護などを目的とした「治山ダム」が完成したばかり。土砂災害を防止する「砂防ダム」と比べて小型ではあるが、いずれも土石流から人命を守るもの。こうしたことから、今回も大丈夫だろうとどこかで思っていたという。しかし、何かいつもと様子が違う。近隣住民3人と自宅周辺を見て回ると、通常とは異なる雰囲気に「いやな予感」を感じた。
 すぐさま自宅に戻り、周囲の状況を説明するとともに「避難しよう!」と声を上げた。車が潰されては今後の生活に支障が出る。そこで、車3台に家族8人が乗り、19時34分に避難を開始した。周辺の状況はさらに一変しており、激しくなった道路冠水により避難所まで辿り着くことはできなかった。19時40分頃に矢野南のバス停まで避難し、そこで夜を明かした。
 結果として、梅河団地のある安芸区矢野地区では19時40分に大雨特別警報、19時43分に避難指示が出された。そして、20時頃に梅河団地を大規模な土石流が襲った。最大2千立方メートルの土砂などを貯めることが出来るはずの治山ダムに大量の土砂が流入。治山ダムの被害はなかったが、流入した土砂により土石流がダムを乗り越え、団地側になだれ込んだ。団地全体の3分の1にあたる約20棟が全半壊し、多くの住人が安否不明となった。

 

 

土砂の撤去だけでなく、引っ越しのサポートなど幅広いボランティア活動を行った。

 

 

友人が行方不明に

 梅河団地の状況を知らせる情報が、宮原のスマートフォンに立て続けに入ってくる。その中で、地元の幼なじみでつくるグループLINEに目を疑う報せが入ってきた。幼なじみの一人と連絡が取れず、行方不明となっているという。宮原にとっては小学校からの幼なじみで、放課後には毎日のように遊んだ仲。約90世帯の住宅が並ぶ梅河団地の中で数少ない同い年の友人であり、高校は別々の学校となったが、SNSを通じて連絡を取り合っていた。そんな彼が…。すぐにその情報を信じることはできず、パニックになった。
 友人を見つけるために何かしたいと思うが、すぐに現場には入ることができない。そこで、SNSで呼びかけを行った。後日、宮原は他の同級生とともに、警察などによる捜索活動を見守る友人の母親らがいる現場に駆けつけた。また、SNSでの呼びかけを受け、同級生や近隣住民ら約100名近くが集まった。一刻も早く見つかってほしいとの想いから、猛暑の中、宮原をはじめとする大勢の同級生や近隣住民らがスコップで土砂を撤去するなどして友人の行方を捜した。
 しかし、願いは届かなかった。7月16日の午前に友人の自宅敷地内から1名の遺体が発見され、後に友人であることが確認された。
「無事に戻ってくると信じていただけに辛く、アイツにもう会えないという現実を受け入れることができなかった」
 だが、ただ悲観していてはいられない。地域を元の姿に戻すために自分にもできることがあるはずだ。そして、それが幼なじみの供養になると考えた。

 

 

ボランティアセンターとなっていた集会所を離れる際は貼り紙を掲出するなど、臨機応変に対応した(写真左)。各種資器材や支援物資の管理、仕分けなども宮原が中心となり行った(写真右)。

 

 

地域のために

 発災した7月6日は車の中で夜を明かした宮原とその家族。翌朝に避難所となっている市立矢野南小学校へ向かうが、すでに500名以上が詰めかけパンク状態。そこでJR矢野駅の近くにある知り合いの所へ身を寄せることになった。宮原はここから梅河団地に通い、友人の捜索や避難誘導などの手伝いを行った。避難住民の数も落ち着いてきたことから、16日頃に家族が小学校の避難所へ移動することになった。ここで宮原は一人自宅に戻ることを決断。自宅は電気や水道などのライフラインは絶たれた状況だったが、建物は無事だった。そこで、自宅を活動拠点にするほうが動きやすいと考えた。
 自らにできる事を率先して行う宮原に、自治会の役員業務を担ってもらえないかという話が来た。梅河団地の自治会は4班で構成され、発災以降は各班長が関連情報などを回覧板で回したり、ボランティアが必要な人を洗い出す聞き取りを行ったりしていた。しかし被害が大きかった2班のエリアでは班長だった女性が土石流に巻き込まれ亡くなっていた。こうした中、宮原が発災直後より精力的に活動を続けていることを知った町内会長が「2班の班長代理をやってくれないか」と願い出たのだ。「役に立てることがあるのなら協力したい」と班長代理を快諾した宮原。避難所と梅河団地を毎日往復して連絡役を担うとともに、片付けのために避難所から一時帰宅する住民への声掛け等を行った。
 被災地はとにかく人手が足りない状況となる。被災してなかなか動けないという者も少なくなく、日が経てば仕事に復帰せねばならずに日中地元を離れねばならないという者が増えた。自治会役員の一人は「こうした中で、夏休みの青年に甘えるしかない現実があった。本人のやる気、そしてご両親の『気が済むまでやらせてやりたい』という思いに、矢野東7丁目(天神町内会)は大いに助けられた」と当時を振り返る。

 

 

町を襲った土砂崩れの現場を、実際に山に入って確認する現地踏査にも参加。現地踏査では道なき山中をロープを使って進んだ(写真左・写真右上)。梅河団地の友人宅跡にある祭壇で手を合わせる(写真右下)。

 

 

ボランティアセンター運営

 梅河団地のある矢野東7丁目では避難勧告に切り替えられたままの状態が続いており、外部からのボランティアが見込めない状況が続いていた。そこで受援体制を確立すべく、地域の集会所に「矢野東7丁目天神町内会ボランティアセンター」が開設された。ある日、遠方からボランティアが駆けつけてくれることになったが、到着が夜遅くなり、仕事の関係で受け入れ対応できる者がいなかった。せっかく矢野東7丁目での活動のために来てくれる。それに応えなければという思いから、宮原は受け入れを買って出た。22時頃に到着したボランティアは翌日の朝一番から動き出すことができるよう、現在の状況等について訊ねてきた。これに対し、班長代理として動いていたため全体が見えていた宮原は現場の状況を説明することができた。
「何十枚かあったニーズ票の内容について説明し、その情報を地図に落とし込み、活動の割り振りまで行うことになった」
 気づけば深夜3時を過ぎていた。しかし、疲れよりも動き出しが早くなったことへの喜びの方が大きかった。
 ボランティアと共に、実質2週間ほど集会所に泊まり込んで対応を行い続けた宮原。朝8時の朝礼の後は町内会の役員が集会所を離れなければならないことも多く、宮原がボランティア受付や活動物資等の整理を実施。宮原の機転の利く対応に、大人たちも宮原に対し絶大なる信頼を寄せていた。
 このボランティアセンター運営に関する経験、そして全国から集結したボランティアのエキスパートとの出会いが宮原を成長させていた。

 

 

イベントなどを通して実施したボランティア相談でも聴き手を務めた。

 

 

自分の手で災害に強い街をつくる

 高校卒業後は父と同じ料理人を目指そうと考えていたが、この夏の経験を経て、何か災害復興につながる仕事に就けないかと考え出していた。すると、高校の教諭から「熊野技建から声がかかっている」と話しをされた。宮原の活動は度々新聞などでも取り上げられており、宮原の行動や思いを知った地元の建設会社が名指しでうちに来ないかと声をかけてきてくれたのだった。同社は宮原が通う高校の近くでも土砂搬出作業を行っており、宮原も頻繁に行き来する熊野技建のダンプカーの姿が記憶に残っていた。
「当時痛感していたのが、復旧はボランティアでもできるが、復興はそうはいかないという現実。声をかけていただいたのが、まさに災害復興を担う会社だった。今回の経験が生かせると思い、この会社で街の復興に関わっていこうと決めた」
 平成31年春に株式会社熊野技建に就職し、入社後初めて担当した仕事は砂防ダムの建設だった。自分が建設に携わったダムが地域に暮らす人々の安心に少しでもつながればと思った。また、西日本豪雨の際の活動を通して知り合ったボランティア団体とともに、現在でも積極的に活動を続けている。令和元年8月の台風で甚大な被害を受けた千葉に、物資を届けた。
「同世代からみれば『なんでそんなにやるの』と思うだろうが、自分では当たり前のことをしているだけ。誰かの助けになるならと、損得を考えずに汗を流す人々の背中を見てきた。自分もそんな人間になれたらと思う」
 誰もがあんな悲しい思いをせずに済むよう、人々をサポートし、自らの手で災害に強い街をつくっていきたい。力強い信念により、宮原は自分の決めた道を突き進んでいる。

 

 

様々なボランティア団体と行動を共にした経験が宮原の進む道に大きな影響を与えた。

 

 

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インタビュー・文︓木下慎次

 


初出:2020年4月 Rising 春号 [vol.17] 掲載

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