西日本豪雨災害 あの日の広島 第一回

想像を絶する大規模な災害に直面した際に、私たちは何ができるのだろうか。
その時、何をせねばならず、どこまでできるのだろうか。
これまでの経験が活かせた場面もあれば、想像もしない現実に打ちのめされもした。
あの日の記憶を、記録として残すために──

伊 木 則 人

 平成30年7月6日。この日は関西での打ち合わせを行うため、午前5時に広島市安芸区矢野東にある自宅を出発した。また、前月の平成30年6月18日に発生した大阪府北部地震の復旧活動として、消防ボランティア団体「集結」の方々が高槻市にて瓦がズレた屋根に対してブルーシートを張る活動を行っているという。関西方面に出向くのであれば、この活動に参加したい。そこで、7月6日から7月9日までの予定で関西方面に向かうこととしていた。
 この時点ですでに雨は降っていたが、それほどの雨量ではなかった。しかし、山陽自動車道は大雨の影響で50㎞/h規制がかけられ、すでに広島県内から渋滞が発生していた。午前8時頃に尾道IC(広島県)まで至るが、以降の玉島IC(岡山県)の間が通行止めとなり一般道へ降ろされる。「一般道で先に進めば倉敷IC辺りから山陽自動車道に戻れるだろう」と思っていた。だが、交通情報を調べると通行止め区間はいつの間にか備前ICにまで拡大していた。打ち合わせは10時からの予定であり、間に合いそうにない。先方へ電話し、事情の説明と午後からへ時間変更をお願いした。その後も激しい渋滞によりなかなか進めず、岡山市内に入ったのは出発から7時間が経過した午後0時だった。この段階で打ち合わせにお邪魔することを断念。再度先方に電話を入れ、日程変更の調整を図った。そして、翌日からのボランティア活動に参加すべく、目的地を大阪府豊中市に変更した。

 この日はちょうど、関東の大学に通い運動部に所属する息子が、国体の予選試合に出場するため広島に帰って来る予定だった。授業が終わり次第、夕方以降の新幹線に乗ると聞いていたが、昼の段階で東京〜大阪間で運休という情報を耳にしていた。午後4時頃に息子へ電話をすると、新横浜駅のみどりの窓口で切符を買うところだった。「広島は結構雨が降っとるし、大会は中止なんじゃないんか?」と伝えるも、中止の連絡がなく、みどりの窓口で確認したところ新幹線が動いているとのことなので、ひとまず広島へ向かうという答えが返ってきた。結果として息子は新幹線に乗って広島に向った。これが後の私にとって有難い結果につながることになる。
 夕刻になっても兵庫県を抜けることができない。これまでの間、幾度となく会社のスタッフや家族と連絡を取っていた。広島では雨が降り続き、中区にある我が社の前の道路も、まるでプールのように1m近くの水が溜まったと聞いた。だが、それ以上の大きな被害に関する情報は入ってこない。兵庫県まで進出している状況であり、今から戻っても・・・。この段階ではまだそんなことを考えていた。
 しかし、状況は一変する。そして、大変な事態が起きていると知った時には、遅かった。午後7時30分ころ、同居する母から電話が入った。
「ものすごい雨よ!」
 私を含め、家族は全員仕事で出ており、自宅には母が一人だった。怖がる母が落ち着くよう話しかけていると、気になる言葉が耳に残った。
「・・・土の臭いがする」
 この一言で、自宅周辺がどのような状況にあるかが理解できた。土の臭いは「土砂崩れの兆候」として広く知られているものだ。自宅周辺は山も近く、土の臭いそのものは少しの雨でも感じられる環境だ。だから逆に「あえて言葉にするほどの臭い」として母が感じ、それを私に伝えてきているという時点で異常な状況が起こっている可能性を示唆しているのだ。
 とにかく山から離れた安全な場所に避難するよう伝え、いったん電話を切った。そして30分ほど経ったころ、再び母から電話が入った。電話がつながると同時に、パニック状態の母の声が聞こえてきた。「ご近所の方と合流できた」「山から凄い音がしとる!」「県道の上から車が玉突きしながら、何台もグルグル回りながら流されていきよる!!」悲鳴を挟みながら必死に伝えようとする母。間もなく、大きな叫び声を上げると、信じられない言葉を発した。
「奥の山から土石流じゃわ!!」
 ──早く広島に帰らねばならない。そう悟った。

 母からの電話でリアルタイムに発災を知り、地元の知人や消防団の仲間からも電話やLINEを通じて「矢野東7丁目天神町内で土砂崩れが多発してるらしい」「坂町や熊野町も甚大な被害が出てるようだ」「緊急消防援助隊と自衛隊に派遣要請がなされた」といった情報が入ってきた。
 この頃、私はまだ兵庫県西宮市の辺りを、大阪を目指して走っていた。午後9時頃に息子に連絡がつき「名古屋付近で立ち往生している」と確認した。新幹線がいつ動き出し、どこまでいけるかもわからない。ならば息子と合流し、一緒に広島に戻る方がよいと考えたのだ。
 午後10時頃に、当初の目的地だった豊中市にある消防ボランティア団体「集結」のベース基地に到着した。「地元が大変な事になっているようなので、申し訳ありませんが広島に帰ります」とご挨拶だけさせてもらい、豊中市を後にした。
 ちょうどその頃、息子から「新幹線が動き出した」と連絡が入った。次の停車駅は京都。そこで京都駅で合流することにした。大阪から京都までは順調に車を走らせることができ、午後11時40分頃に無事に息子と合流が果たせた。

 広島へ向かう。高速道路が通行止めのため一般道しか使えない。移動距離はおよそ360㎞。深夜であり、雨も小康状態であることから、午前中には戻れると思っていた。内陸の一般道を通るルートが若干早いが、それは平時の話し。山間部を抜けるルートであれば土砂崩れなどで通行不能となっている可能性があり、逃げ道もない。そこで、海寄りの神戸、加古川を経由するルートを選択した。日付が変わった7日の午前9時頃になって倉敷市までたどり着けた。この先は激しい雨に襲われたエリアが続くため、さらに道路状況が悪くなるはずだ。そこでしばしの休憩をとり、朝食も済ませた。
 早々に出発するも、予想通り全く進めない状況に襲われた。午後4時頃になって尾道市に入る。至る所で土砂崩れや冠水が発生しており、国道、県道、旧道など、あらゆる道を選びながら車を走らせ続けた。ナビの経路案内は生活道路を除外して幹線道路を優先するため、案内通りに車を進めれば必ず大渋滞に巻き込まれる。そこで、経路案内は使用せず、地図を広域表示にして西に向かう道、回避路があるルートを目視で探して走った。
 また「どの道が生きているか」というリアルタイム情報を把握するため、各地で面識のある地元の消防関係者に連絡を取り、道路情報の交換を行った。これにより通れる道、裏道を教えてもらい、私はそのルートが実際に通行可能であったかなどをフィードバックした。当初、こうした問い合わせを行うことに躊躇したのだが、ある地域で「その道を伊木さんが通れたなら、私たちもそのルートで通報先に向かうことができそうだ」といった言葉をもらった。災害多発の状態にあり、地元消防組織は道路調査などに人員を割くことができない。そうした中で、私の「通行できた」という情報が役立つ場面があったのだ。
 そして、情報収集と並行した移動に力を発揮してくれたのが息子の存在である。交代要員がいたことから車をノンストップで進めることができ、細かな情報収集や地図確認も可能となったのだ。本来であれば数時間で移動できる区間であっても、中途半端な迂回では、大渋滞にはまって逆効果となる。そこで、西の広島方面へ向かうのに、北や南へ大きく迂回せねばならず、走行距離が予測不能な程かさむ状態だった。こうした悪条件の中、息子のサポートを得つつ、7日の午後10時過ぎに広島市内へたどり着いた。

 広島に戻ったが、自宅には帰れなかった。自宅のある矢野東7丁目は濁流や土砂、木、巨石、流され大破した車などで道路が塞がれ、完全に孤立していたのだ。我が家は被害を免れることができたが、家が全壊し帰る場所がない人、あるいは家に居るのが怖いといった近隣住民に避難スペースとして開放した。自宅に一人だった母はその近隣住民16名と共に励まし合い、協力し合いながら2晩目を過ごしていた。
 我が社の経理を務める妻も、発災当時は会社に残っていたため、自宅には帰れないでいた。そこで、避難先として身を寄せていた南区の親戚の家に向かった。
「お疲れさま」
 妻が私たちを迎えてくれた。6日の朝に家を出てから40時間ぶりの再会。何とか帰ってこられたと実感できた。
「行ってくるけぇ」
「気をつけてね」
 あまり言葉は交わさず、妻や息子と別れ、そのまま私は所属する広島市安芸消防団矢野西分団の詰所へ向かった。
 帰広はゴールではなく、災害との長い戦いが始まることを意味している。詰所へ向かう車の中で、私は「覚悟」を決めた。

──つづく

  • 高速道路は雨の影響で通行止めとなった。
  • 道路に土砂が流入しているところも多かった。
  • 一般道の状況。至る所で冠水していた。
  • 息子と合流したことで運転を交代しながら車を走らせることができた。
  • 河川を見ると水の量がかなり増え、茶色く濁った状態だった。
  • 消防団詰所付近の状況。

 


 

写真・文:伊木則人
構成:木下慎次


初出:2018年10月 Rising 秋号 [vol.11] 掲載


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