3.11 東日本大震災を忘れない[宮城県] interview #04
【web限定公開記事】
名取市は宮城県のほぼ中央に位置し、北側を仙台市、南側を岩沼市、西側を村田町と隣接し、東側に太平洋を臨む。市域は東西に細長く、丘陵部、平野部、海浜部の3エリアに大きく区分される。同市の消防は1本部1消防署3出張所の常備体制と1消防団6分団の非常備体制により市民の安全・安心を守っている。
平成23年3月11日、14時46分に発生したマグニチュード9.0の地震、それに伴う大津波の襲来により名取市は未曾有の被害を受ける。特に津波による被害は甚大で、高さ約9メートルを越す巨大津波が沿岸部地域にある赤貝の産地で有名な「閖上(ゆりあげ)」と仙台空港の東側に位置する「北釜」の2つの集落を全てのみ込み、一瞬にして消滅させるなど、想像を絶する壊滅的な被害を与えた。
間一髪の救出
これまでに経験したことのない激しく、そして長く続いた揺れがある程度おさまると、消防団員は各詰所に参集し、水門閉鎖や担当地区の避難誘導を実施した。
閖上分団第9部の詰所では部長の大内和比佐ら5名が集合。直ちに水門閉鎖に向かったが、担当地区にある7つの水門のうち5つの閉鎖に成功するものの、2つは地震による影響で作動しなかった。分団長へ報告を行うべく、活動拠点となっている公民館へ避難を呼び掛けながら向かう。その途中、市営アパート2階に自力避難不能なお年寄りがいると、ヘルパーから助けを求められた。その場に居合わせた団員2名で対応を試みるも、救出困難。人手が必要と判断し、再度公民館へ急いだ。
公民館に到着すると、大内は水門の閉鎖状況や要救助者がある旨を報告。再び避難誘導に戻る。海に近い市営アパート付近に到着すると、先ほどのヘルパーが再び助けを求めてくる。丁度そこに団長と副団長が駆けつけた。そこで、団員4名により救出を実施。寝たきり状態の要救助者を閖上分団第9部が運用する消防団救助資機材搭載型車両に乗せ、避難を開始した。同車は前年の10月4日に総務省消防庁の緊急安全対策事業により配備されたもので、積載部にガルウイングを採用した最新式の消防団車両だった。
大津波が車両の背後に迫るなか、渋滞に巻き込まれながらも15時40分頃に避難所となっている閖上小学校に到着。要救助者を抱えて非常階段を駆け上った時には、津波が腰まで押し寄せてきていた。
「上がれ!上がれ!!」
上階になんとかたどり着いたところで振り返ると、津波が下の階まで迫っていた。小学校に到着してからわずか10秒の出来事。閖上分団第9部の最新型車両も津波に飲み込まれた。
「私たちにできたのは、それだけです。なす術もなく、基幹装備である車両も失った」
悔しそうに、大内はこう話した。
寒さとの戦い
閖上分団第9部班長の小熊勅敦も間一髪で閖上小学校にたどり着いた。
「1波目で腰高まで浸水し、1波が引く前に2波、3波と、どんどん水位が増した。流されそうになりながら助けを求める人に対して、屋内消火栓につながったホースを投げ渡し、腰に巻かせて引き寄せて救出した」
このように、津波に飲み込まれそうになりながらも、何とか救い出せた命があった。しかし、発災当夜は雪が降り、冷え込みも激しかった。団員も、市民も、多くがずぶ濡れの状態だった。
「携帯も水没しており、助けも求められない。なんとかしてこの夜を明かさねばならなかった」
名取市消防団団長で当時副団長だった松浦岩男が、そのときを振り返る。
幸いにも学校の校舎内。窓にはカーテンがついていた。これをはずし、濡れたからだに巻きつけて暖を取らせ、夜を明かした。
なかなか“戻れぬ”もどかしさ
全国的に職業構造の変化による消防団員のサラリーマン化が見られるが、名取市でも同様の傾向が見られる。
東北の空の玄関である仙台空港がある名取市下増田地区を守るのが下増田分団。第3部部長の渡辺篤は、仕事で仙台市方面へ向かっていた車の中で地震に遭った。社員の安否が気になり電話をかけるが、連絡が取れない。詰所に向かう途中で津波が襲来し、ゆっくりと水があがり、目の前で車が浮いて流れていく。
「下増田がこの状態。さらに海に近い閖上がどうなっているか、想像できなかった」
他の団員も仙台市方面で仕事をしていたところで地震が発生。直ちに地元へ戻ろうと試みるが、東部道路上で交通がストップし、朝まで車の中で過ごすことになった団員もいた。車内のテレビで仙台空港が津波に襲われる映像を目にする。一刻も早く活動に合流せねばと気が逸るが、交通規制や渋滞、津波襲来後の交通遮断により、なかなか地元へ戻ることができなかった。
下増田分団第2部部長の洞口利勝は、仙台市にある会社に勤めている。職場の車を借りて地元へ向かった。しかし、一面が浸水した状況で先に進むことができず、翌日の昼ごろになってようやく水が引き、先に進むことができた。あらゆるものがなぎ倒され、ヘドロにまみれて見渡す限り真っ黒となった世界。何処に道路があるかわからない中を慎重に進んだ。なんとか消防本部に到着すると、地図に被害状況などを記したすさまじい数の付箋が貼り付けられていた。
過酷な救助・捜索活動
2日目以降は、消防署隊や緊急消防援助隊、自衛隊などと協力して、浸水により孤立してしまった住民の救助活動や、まだ生存しているであろうという望みを持ち行方不明者の捜索活動が実施された。浸水域の水位2~3m。アルミボートで活動を行うが、瓦礫でボートが進めないことも多々あった。また、孤立した避難所から避難者を積載車で搬送した。
捜索活動は重機等の機械が使えず、人力による捜索に頼らなければならない現場もあり、さらには個人防護装備の不足や安全管理の面から消防団による活動が困難な局面も生じた。
「1地区全滅といったエリアも珍しくなかった。たとえ受け持ち地域であっても、消防・警察・自衛隊のみで消防団は活動なしとせざるを得ない状況があった。自分たちの手で活動したかった」
ある団員は、悔しそうに当時をこう振り返る。
消防団員の活動に従事する時間が増えるにつれ、一刻も早く休養を取らせる必要が生じた。捜索を行えば、何十体もの御遺体を発見する。しかも、地元の知り合いが変わり果てた姿でそこにいる。消防団員にとって、肉体的にも、精神的にも過酷な状況だった。こうした現実を踏まえ、消防団では対策本部と調整しながら各分団でローテーションを組み、捜索活動を実施していった。
なかなか消せない火災
市内では地震や津波に起因する火災もあった。3月中に建物火災が5件、その他瓦礫火災が7件発生。このうち11日に発生した建物火災では、道路が津波で水没していたり、瓦礫の山と化していて火災現場に接近することができず、道路啓開がある程度完了するまでの間は、ただ見守るしかできなかった。
名取市消防団は6つの分団があり、沿岸地域にある2つの分団は発災直後より住民への避難誘導などを行った。また、他の分団では詰所や地区公民館に集結し被害状況調査や情報収集を実施。3月中は全分団による捜索活動が展開され、4月以降は2分団単位の輪番で5月16日まで捜索活動を継続した。
組織体制の充実強化に向けて
名取市では総面積の28%が浸水し、消防団においても消防団車庫詰所6棟と水防倉庫2棟が津波により流失、3棟が水没、小型動力ポンプ積載車7台が大破し、名取市消防団発足以来初めての殉職者16名がでるなど、大きな被害をもたらした。
こうした経験を教訓に、いかなる状況においても命を落とすことのない消防団活動体制が模索された。津波に対しては到達予想の10分前に団員も避難完了とする撤退ルールが作られ、参集時に団員間や団本部などとコンタクトが取れない場合の対応方法が各分団単位で検討されてる。
取材の最後に、松浦団長が静かに話し出した。
「実は、今日までこうした話をしたことはなかった。記録や報告により誰が何を行ったかはわかっている。しかし、どのような状況で、どのようなキモチで活動したかは、なかなか聞けるものではなかった・・・」
家族を亡くした者も多く、さらに、活動により悲惨な現場を毎日のように目の当たりにしてきた。こころのケアも行われており、集まって話をする場なども以前より多く設けるようにしてきた。しかし、辛い記憶がフラッシュバックすると、活動以外では仲間との接触を避けるようにした団員もいた。
「5年経った今でもあの日の光景が目に浮かぶ。瓦礫はなくなったものの、一面何もない世界が広がっている状況を見れば、気持ちの整理もつかない。当時の団員の中には『どうしてもあの日のことが忘れられない』と、消防団を去る者もいた。心のスキマを埋めてあげることもできなかった──」
団員たちに二度と辛い思いをさせない。そのために、できることはすべて行う。
名取市消防団では誓いを新たに、組織体制の充実強化に向け前進を続けている。
取材に御協力いただいた皆さん
名取市消防団 |
名取市消防団 |
名取市消防団 |
下増田分団
副分団長 荒井範夫 |
閖上分団第9部 |
閖上分団第9部 |
閖上分団第9部 |
関上分団第5部 |
下増田分団第2部 |
下増田分団第3部 |
下増田分団第1部 |
現場写真提供:名取市消防本部
インタビュー:伊木則人(株式会社ライズ・代表取締役)
文:Rising編集部