3.11 東日本大震災を忘れない[岩手県] interview #01
その日は週休で、外出のために家を出た矢先に地震に遭遇した。家が倒壊してしまうのではないかと感じるほどの長い横揺れが続き、「大津波警報」が発表される。岩間は車にて、釡石市内の自宅から当時の所属先である大槌消防署へ向かった。停電により信号が止まり、道路は所々で渋滞していた。既に当初の第一波到達予想時刻が過ぎていたが、ラジオからも大きな変化は伝えられない。岩間が消防に入ってから大津波警報を経験するのは2回目。1回目は1年前に発生した「チリ地震」だが、その時は津波の到達予想時刻が大分遅く、結果的に大槌町では1m40cm程度の津波が観測されたものの特に大きな被害はなかった。こうした経験から、後に自らの身に迫る危険、そして未曾有の大災害となることなど思いもしなかった。
迫り来る大津波
これまで通勤には海沿いを走る国道45号線を使っていたが、釡石山田道路の先行区間として釡石両石ICから釡石北IC間が一週間前の平成23年3月5日に開通。信号も少なく、5分ほど早く職場へ着くことができるため、開通後はこの道路を使っていた。この時も釡石山田道路にて大槌消防署を目指していた。ICを下りると、渋滞が始まった。そして海沿いの国道45号線に入った時だった。渋滞に巻き込まれ停車していると、右手の海岸方面から見たこともない大きな黒煙がこちらに迫ってくるのが見えた。対向車の運転手が窓越しに手を振って「逃げろ!」と叫んでいる。岩間はとっさに国道をUターンし、釡石山田道路方向へ引き返した。
足を震わせながらアクセルを踏み込む。ルームミラーに視線を送ると、大津波が間近に迫ってきていた。このままでは車ごと流されてしまうと思い、釡石北IC付近の旋回場所に車を乗り捨て、近くの山林を這い登った。大津波が押し寄せたのはこの直後だった。間一髪で逃れることが出来た。「以前の通勤ルートであれば海沿いの道路上で津波に襲われていたはず。開通したばかりの道路が私の“命綱”となり、一命をとりとめることができた。しかし、助かったと安堵できる状況ではなかった。悲惨な光景がいまでも鮮明に脳裏に焼き付いている…」目の前では街が壊滅して行く悲惨な光景が広がる。多くの家屋が津波に流され、中には屋根の上にしがみつきながら助けを求めている人もいた。助けたいが、どうする事も出来ない。その場に避難していた人達と、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。
最初の「活動」
幸いにも、車を乗り捨てた場所は津波の影響がなかったが、その後も何度も津波が押し寄せ、道路が浸水で寸断されてしまう。そのため車での移動はできなくなった。水位が若干下がり、津波の押し寄せも少なくなったところで、どのように署へ向かうか考えていると、近くの橋げたで、身動きが取れずに手を振って助けを求めていた2名の人影が見えた。何とかしなければと思い、岩間は車のトランクに入れてあった数本の小綱を手にすると、要救助者の元へ走った。自分一人だけで引き揚げるのは困難と判断し、「橋の下に人がいます!手を貸して下さい!!」と、少し離れた道路上に避難していた人達に協力を求めた。すぐに十名近い人が駆けつけてくれ、さらに、ロープなど救出に活用できる資機材も持ってきてくれた。協力者たちと力をあわせ、2名を無事に引き揚げることができた。
仲間との合流、しかし…
逃げ込んだ山林から大槌町までは国道が浸水しており、山越えをするしかなかった。徒歩で山を越え、辺りが暗くなった6時過ぎに大槌町へ入った。見慣れたはずの街並みは変わり果ててしまっていた。町内は浸水に加え、火災が多発し火の海に包まれ、壊滅状態となっていた。
少し進むと、退避していた大槌消防署救急隊の車両を見つけ、4名の隊員と合流できた。「(チリ地震の時のように)早く逃げられたんだな」と声を掛けると「いや、違う」と答えが返ってきた。「水門閉鎖確認に出ているときに津波を目にし、間に合わないと覚悟しながらもとっさに高台へ逃げてきた」「署員十数名も大槌町庁舎の屋上に逃げている」「署長も副署長もどうなっているか分からず、無線もつながらない」これ以上ない最悪の状況だ。しかし、悩んでいる暇はない。救急隊と共に今後の活動について検討していると、大槌消防署ポンプ車隊からの無線が入った。同隊は「大槌町総合ふれあい運動公園」へ退避し被災を免れたとのこと。また、浸水を受けておらず、公園内の弓道場が避難所となっているという。岩間と救急隊の4名はすぐさま現地へ向かうことにした。
増える傷病者
避難所となった弓道場では、200名近い町民が身を寄せ合っていた。まずは人々を安心させようと、岩間は状況説明を行った。そして、負傷者や急病人の数、容態を確認していく。津波が落ち着いても道路は寸断されており、医療機関への搬送はできない。救急車に積載していた資器材で被覆や保護などの応急手当を行い、バイタル測定や既往症の確認を行う程度しか出来なかった。さらに、避難所へ運ばれてくる急病人や負傷者も増えていった。早急に医療機関等での処置が必要と思われる傷病者十数名のトリアージを行うも、搬送先を見つけることが出来ない。ここに現れたのが、町内の山間部にある老人福祉施設に所属する看護師だった。同施設には医師や看護師が常駐しており、医師が機転を利かせて避難所へ看護師を投入してくれたのだ。この看護師を通じて施設に残る医師へコンタクトすることに成功。受け入れの快諾を得ることができ、夜通しの重傷者ピストン搬送が行われた。
広域空路搬送で対応
救急対応に加え、浸水した民家からの救出など、絶え間なく活動を行った。10時10分には公園内の野球場に自衛隊大型ヘリ「チヌーク」が飛来。消防庁舎屋上で一夜過ごした署長以下署員たちも、住民らと共に救出され避難所へやってきた。大槌町総合ふれあい運動公園には避難所として動き出している弓道場があり、緊急離着陸場となる野球場もある。そこで、ここを現地本部拠点とすることが決定。岩間は署長より救急活動統括の指示を受けた。ヘリで救出された人の中には大槌町の開業医もおり、この医師と連携して避難所内に応急救護所を開設。消防無線を通じ災害対策本部への空路搬送要請や、緊急離着陸場の安全管理等を実施し、12日16時20分より本格的な広域空路搬送がスタートした。
東日本大震災では平成7年に発生した阪神・淡路大震災とは異なり、クラッシュシンドロームといった倒壊建物による外傷等は少なく、低体温や浸水による熱発、肺炎などが多かった。また、妊婦の対応や糖尿病、人工透析、在宅酸素療法といった慢性患者が多かった。こうした傷病者を緊急消防援助隊の航空部隊や海上保安庁、自衛隊などのヘリにて空路搬送していった。
応援の手
不眠不休はもちろん、食事も12日夜に、ようやくおにぎり1個を口にすることが出来た程度。この状態がいつまで続くのだろうという思いから、日増しに隊員のストレスも溜まってくる。指揮者の1人である岩間は職員の精神的なケアも配慮し、顔を見ながら活動の調整を行うように心がけた。15日になると応援部隊との連携も軌道に乗り、ようやく1隊を休ませることができた。岩間自身も15 日夜に、発災直後に家を出てからようやく家族に連絡する機会ができ、電話で「生きてるからな」と一言だけ伝えた。
震災発生当時はライフラインも寸断され、災害対策本部が十分に機能できずに被害状況などの情報収集が困難だった。さらに、消防車両の燃料や救急消耗品の不足などで活動に支障をきたす場面もあり、不眠不休の活動という追い討ちもあって肉体的にも、精神的にも、かつて経験したことのない活動を強いられたという。「消防車両も流された中、数か所で発生した山火事の消火活動は、緊急消防援助隊の応援が加わって初めて着手できた。他にも、浸水した病院から入院患者50名を搬送するなど、私たちの力だけでは対応困難な場面ばかりだった。こうした中で支えとなったのが、地元医療関係者や全国からの応援部隊の協力だった」
岩間は感謝の気持ちを胸に、災害に強いまちづくりを目指して活動を続けている。
現場写真提供:釡石大槌地区行政事務組合消防本部
インタビュー:伊木則人
文:木下慎次