西日本豪雨災害 あの日の広島 第二回
想像を絶する大規模な災害に直面した際に、私たちは何ができるのだろうか。 伊 木 則 人 |
仕事のため関西方面に出ていた私は、発災翌日の7日午後10時過ぎになってようやく広島市内へ戻ることができた。自宅周辺は通行不能の状態と聞いていたため、所属する消防団の詰所へと向かった。午後11時頃に安芸区にある広島市安芸消防団矢野西分団の詰所付近へ到着すると、住宅街の至る所で冠水が起こっていた。すでに仲間の団員たちは活動を行っており、私も合流した。土のうをポンプ車に積み込み搬送し、家屋への水の流入を少しでも抑えるべく積み上げていった。可能な限りの活動を終え、日付が変わった8日午前1時頃に詰所へ戻り、活動再開予定の7時まで仲間とともに仮眠をとった。
今回の豪雨災害では消防団の特徴である即時対応力や動員力を活かし、発災直後から人命検索や救助活動等を実施したほか、女性消防団員は避難所での支援活動等を実施。7月6日から8月13日までの39日間に延べ6,294人が活動を行った。また、広島市内の各消防団は各区の管轄区域のほか、広島市全域の応援や、消防事務を受託する海田町、熊野町、坂町への応援活動を実施した。矢野西分団の管轄区域では依然として活動に着手できていない場所がある状況。そこで、8日は活動場所を数か所に分け活動することが決定。私は自宅周辺での活動を申告し、詰所を後にした。
自宅から500mの範囲は車を乗り入れることができない状態。最寄りの避難所である広島市立矢野南小学校に車を置き、そこから歩いて自宅へ向かった。変わり果てた町の様子は想像を超えていた。これまでにボランティア活動で入った他都市での被災地の光景が、日々生活していた我が町に広がっている。慌ただしく消防、警察、自衛隊、各機関の関係者が走り回っている。山からの水が濁流となり、川から溢れた水が県道を塞ぎ容易に渡ることができない。自宅のある安芸区矢野東7丁目へはこの県道を渡らねばならない。天神交差点では現場で活動する救助実施機関により親綱が設定されており、これに安全帯をかけ、何とか渡ることができた。
自宅へ戻れたのは正午頃だった。我が家は辛うじて被災を免れており、直近の避難所までの移動も困難なことから私設の避難所として開放し、近隣住民が身を寄せていた。状況は最悪だ。話を聞けば、行方不明者も相当数出ているようだ。すでに発災から40時間が経過しており、行方不明者の捜索が第一優先であると考えた。この少し前、取材などを通じて繋がりのあった愛知の現役消防士H氏から連絡があった。H氏は災害現場活動へのドローン活用に取り組んでおり、東京で地理情報科学を研究するI氏やその助手の方とともにボランティアでの情報収集活動のために広島へ向かっているという。発災直後で交通が麻痺する中、3人が午後2時頃に駆けつけてくれた。私の自宅を拠点とし、町内の山から海まで約5㎞のエリアを移動しながら、ドローンによる撮影を行ってくれた。至る所で川や側溝が氾濫し、道路は濁流で塞がれている。この水をなんとかせねば、捜索活動や孤立地域の解消が出来ない。明るいうちに片道5kmの道程を2往復し、町内の状況をくまなく撮影し、分析した。
山から海までの中間に位置する私の住む矢野東7丁目の団地は、矢野川から越水した水が県道を濁流となって流れており、孤立化を招いていた。越水の原因は上流で大型トラックが川に落ち、瓦礫などと一緒になって水をせき止めたことで県道へ逃げるように流れ出しているため。そこから約500m下流では、県道上で大型トラックが横転し道を塞いでいるため、これにより濁流は再び流れを変え川に戻っていることが分かった。
山からの濁流は一部で県道に進路を変えているものの、すぐに川へと戻っている。つまり、この流れを変えても下流域の水量に変化はない。画像により海までの状況を確認するも、現状以上の氾濫を引き起こしそうな障害物はなかった。そうと分かれば上流側のトラックと、後の活動に障害となる下流側のトラックそれぞれを撤去するのみだ。現場にて重機による道路啓開活動を行っていた自衛隊の指揮官を訪ね、ドローンで撮影した映像をもとに専門家の3人とともに状況を説明し、トラック撤去について進言した。「わかりました、やりましょう!」
時間はすでに夕刻。自衛隊は大型重機による活動を終了し撤収を始めていたところだった。しかし、私たちの提供した情報を受け止め、自衛隊がトラックの撤去に着手してくれた。また、解体業を営む消防団の仲間も職場の重機をもって駆けつけてくれた。発災から約50時間経った7月8日の午後9時頃にトラックの撤去が完了。県道を塞いでいた濁流は川へと流れを戻し、団地は孤立状態から脱したのである。厳しい環境ながらも人の往来が可能になった。つまり、捜索活動を行う人員も投入が容易になり、効率が格段に上がるはずだ。だが、やるべきことはまだある。効率的で漏れのない捜索活動のための資料を作るべく、ドローンで撮影した画像を元に情報解析と分析を深夜3時過ぎまで続けた。
9日は早朝5時より安芸消防署の講堂に設置された現地総合調整所に向かった。ここは安芸区に加え、広島市が消防事務を受託する海田町、熊野町、坂町で発生した土砂災害等に的確に対応するため設置されたもの。調整所には広島市消防局や消防団、緊急消防援助隊、警察、自衛隊などが集結し、朝と夕方の2回調整会議を実施して活動計画の検討や調整、活動結果の情報共有等が行われていた。朝の調整会議に合わせ、夜中のうちに仕上げた資料を元に情報提供を行った。現場の最新状況を映し出した資料は安全管理にも役立つ。土砂がどこでどの程度崩れ、どう流れたかを把握すれば、捜索活動も効果的に実施でき、さらに二次崩落などが発生した際に活動隊員が退避する方向などを検討することができるからだ。
その後は、地上からの目線で状況を把握すべく町内を歩き回った。アスファルトが剥がれ、流された車や土石が道を塞ぐ。今年2月に完成したばかりの治山ダムの前にあった住宅は跡形もなく流されている。さらに、至る所に巨大なコアストーンが転がる。この治山ダムから少し下がった場所でも、住宅に土石や流された車両などが押し寄せ、家の形はあれど壊滅的な状態だった。知人の女性は川沿いの道を、行方不明になった息子の名を叫びながら歩く。捜索活動が出来るようになった喜びとは裏腹に、恐怖や不安、そして焦りがこみ上げる。行方不明者を一刻も早く見つけたい。気持ちばかりが先走った。
私にできることで、私にしかできないこと。そう考え実行したのが俯瞰的な状況把握と情報の共有だ。例えば地域住民。下流域に暮らす人々は流された土砂の撤去に追われ、上流域の現状に意識を向けることはできない。そして現場で活動する救助者たちはローテーションにより活動を継続しており、一連の状況の変化を通しで把握するのは困難だ。一刻も早い行方不明者の発見はもちろん、地域住民やそれを救うために活動する人々のいずれも二次災害に遭わせたくない。その一心から、現場、各機関の現地指揮本部、現地総合調整所、避難所など関係する局面を何度も往復し、情報収集と共有に力を入れた。
初期の段階で力を注いだのは安否情報の把握だ。安否情報は警察が確認を進めていたが、「居ない者を探す」という作業は非常に難しく、やはり難航している様子だった。この手助けができないかと、私は避難所である矢野南小学校と矢野小学校に向かい、避難所運営を担当する職員に話を聞いた。すると「収容世帯と人数」は把握しているが、安否情報は確認していないという。そこで、人が集まる食事を配布するタイミングで「安否がわからない人を知っている人」が居ないか呼びかけてもらい、どこの誰が行方不明になっているかを洗い出した。この情報は逐一、現地総合調整所に提供していった。また、県道の往来が可能になったことで、避難所から自宅へ着替えを取り戻る者も増えてきた。そこで「自宅に戻る際は現地指揮本部に立ち寄ってください」と呼びかけた。現地指揮本部は各活動現場に設置されており、現地総合調整所で決定された活動計画等に基づいて、広島市消防局の出動部隊はもとより、消防団、県内消防応援隊、県内応援消防団、緊急消防援助隊等の活動エリアの調整等を行うほか、関係機関等との活動調整を行っている。「地図がありますので、自分の家の場所を示し、安否情報を伝えてください」
これは安否情報の把握だけでなく、万が一の二次災害発生時に「どこに誰が居るか」を活動機関が把握していれば対応しやすくなると考えたからだ。こうした活動を続けるうちに、何日かすると各機関の指揮官から私に対して情報の求めが入ったり、各局面の活動状況を知らせてくれるたりするようになった。当時はそれがどういう役割であるか考える余裕もなかったが、いわば私を「指揮支援隊」のような存在として認識してくれたようだった。
何とかではあるが進み始めた捜索活動と復旧への動き。一方で、新たなる課題を検討しなければと思った。発災以降、気温が35度を超える猛暑の中で連日の活動が続けられており、現場活動する者や地域住民の体調に留意しなければならない。また、台風の襲来やゲリラ豪雨の予報など、二次災害の発生が容易に予想される出来事も続いた。過酷な環境の中、先の見えない日々が続く。一刻も早く行方不明者を助け出し、元の町並み、そしてみんなの笑顔を取り戻さねばならない。そのために自分自身が進むしかないと確信し、活動を続けた。
──つづく
写真・文:伊木則人
構成:木下慎次
初出:2019年01月 Rising 冬号 [vol.12] 掲載