西日本豪雨災害 あの日の広島 第四回(最終回)
想像を絶する大規模な災害に直面した際に、私たちは何ができるのだろうか。 伊 木 則 人 |
西日本豪雨災害では、各地で、あまりにも広範囲にわたり甚大な被害が出たことからボランティアも分散。幸いにも広島市安芸区や安芸郡坂町などには多くのボランティアの方々が集まってくれた。これにより、我が町の「矢野東7丁目天神町内会ボランティアセンター」では地域住民からの「ニーズ」に迅速に対応することができた。一方で、町の状況に劇的な改善があるわけでもないのに、寄せられるニーズが収束していくことに違和感を覚えていた。
確かに、当初寄せられたニーズに対しボランティアの方々を計画的に割り振ることで、対応は迅速に進められた。しかし、それは応急処置的に対応したものであり、現実には排除しなければならない土砂や瓦礫、コアストーンが庭やガレージ、家屋内に残っている状態。さらには、こうした状況で絶対に必要な床下の確認まで至っていないというご家庭も多いはずなのだ。にもかかわらず、寄せられるニーズは減少し、対応が完了すれば書類上は終了となるため、表面上は「収束傾向」となっていたのだ。
実際に町内を回り、地域の人々と話をすることで、今起こっている事態の原因がわかった。「一度ボランティアに応急処置をしてもらったから」あるいは「うちより大変なところがあるのに手を取らせるのは悪い」といった遠慮があったり、「市に頼んでいるから」と黙って待っていたりする住民が多かったのだ。実際にはニーズが数多く存在しているのに、ボランティアセンターに対し書類上の「ニーズ」として上がってこない。結果として、ニーズが収束したような形となってしまうため、ボランティアセンター閉所に向かわざるを得ないという悪循環が起こっていた。
本当にボランティアの手が不要になりボランティアセンターが閉所するなら喜ばしいのだが、中途半端な状態で閉所してしまえば、一気に復旧復興が止まってしまう。ボランティアの方々や重機が入ってくださっているうちに、本当の「ニーズゼロ」にたどり着かねばならない。そこで、潜在的なニーズを掘り起こすべくローラー作戦を展開。現場に入り、住民の方々と実際にお会いして話しをしていると「えっ?まだそんな状況ですか!?すぐ行きます!!」というように、すぐさまボランティアセンター対応案件として動き出せるケースも少なくなかった。また、外から見ても気付けない家屋内への土砂流入など、住民の申告がなければ把握すらできない案件は、なかなか「ニーズ」として上がってこない。これに対してもローラー作戦による戸別訪問や住民聞き取りが一定の効果をもたらした。
しかし、ニーズが掘り起こせるのも住民と接触できてこそ。早い段階で町外へ避難された方、さらに近隣の方も連絡先がわからないお宅などは、復旧作業をした方が良い状態であっても手を付けることができない。2度にわたるローラー作戦を展開するも、こうした現実から100%のニーズ掘り起しには至れず、結果として9月に入ったところで「矢野東7丁目天神町内会ボランティアセンター」は閉所されることになった。
ボランティアセンターが閉所となっても、残った土砂の撤去などは隣近所で助け合い、時には単発でやってきてくれるボランティアの方々と連携しつつ対応していった。
こうした活動が落ち着いてきたところで、現状を改めて知るために、町内を襲った土砂崩れの現場を実際に山に入って確認しようと思った。安全管理などのサポートとして消防ボランティア団体「集結」の方々が協力を快諾してくださり、10月に私と町の有志によるメンバーにより、土砂崩れの痕を辿るように山に入った。
私の住む「日広団地」の谷から山に入り、山頂に向かう。土砂が流れ出し巨大な岩盤が剥き出しになっている所が多く、また、土砂が削り取られて直線的な流路が形成されてしまった場所も少なくない。さらに、崩れかけた状態で辛うじて止まっている大量の土砂や倒木、コアストーンが見られた。雨だけでなく、地震などの刺激により、こうした土砂などが崩れだす可能性が否めず、大雨が降ればこれらが一気に流れ出し、無防備となった町をあの日より激しい土石流が襲うことは素人目にも明らかだった。
山頂から南に移動し、帰りは「梅河団地」の治山ダムにつながる谷を下った。大きな治山ダムを乗り越えた土石流の破壊力を目の当たりにして何度も足が竦んだ。
実際に直視確認する事で、危険性を肌で感じることができた。この感覚を共有して皆で脅威と感じ、迅速な避難行動につなげようと説明会を開いたところ、多くの地域住民が集まった。行政の手により治山ダムの改修やセンサーの設置などは急ピッチで進められているが、これで被害がゼロになるものではない。たとえどんな対策を講じようと、危険が差し迫った場に私たちが居続ければ、当然被害に遭うわけだ。最終的に自分の身を守るために必要なのは、私たちの素早い避難しかないのだ。私たちが置かれている現実を整理し、理解できるよう、時間をかけて説明を行い、迅速な避難の必要性を呼びかけ続けた。
新年度になり、我が町の町内会も新役員体制で新たなるスタートを切った。私は天神町内会副会長と天神町内会自主防災会会長を任されることになった。最初の仕事となったのが、町内会自主防災会の通常連絡網と緊急連絡網の改定作業だ。だが、連絡網自体が役員等の氏名と電話番号が羅列された一覧表に過ぎず、改定といっても変更のあった役員の情報を差し替える程度だ。
防災的な付加価値をつけるのであれば、電話番号だけでなく、災害時の安否確認や人定に役立つ家族構成や要配慮者の有無などの情報も収集しておきたいところだ。こうした情報をある程度把握していなければ、全員避難して無事なのか、逃げ遅れて行方不明なのかといった判断も難しくなる。また、避難する際に、お年寄りや小さな子供のいらっしゃるご家庭、独居老人などに助け合いの手を差し伸べることも難しい。
しかし、ここで個人情報保護法という壁が立ちはだかる。
昨今ではニュースなどでも度々取り上げられているが、命を守るための情報ではあるが、こうした個人情報を町内会としてどこまで把握するか、住民側もどこまで開示するのかが問題となる。
結局、我が町でも答えを見出せず、今回は単純改定に留まることになった。
だが、自主防災会という組織として考えるからこうした障壁に悩まされるということも言える。地域の住民それぞれが平時から個々に繋がり、顔の見える関係を構築できればよいわけである。組織や連絡網といった仕組みに依存せずとも、発想を転換することでクリアできる問題も多いといえるだろう。
今回の災害を踏まえて広島市が推進する安全で安心な町づくりのモデル地区として我が町が選ばれ、防災マップを作ることになった。これも町をあげて防災に取り組んできた結果といえるだろう。
防災マップ作りは、成果物であるマップだけでなく、製作過程において「町の実態をみんなで知る」ことができるという点が大きなメリットといえる。説明会により防災マップが何であるか、作るために何をするかを知ることで、漠然とであっても防災上の着眼点が見えてくるはずだ。そして住民自らが実際に町を歩いて周り、防災という観点で気付いたことなどを拾い出し、共に話し合うことで、注意しなければならない場所や対処方法が見えてくる。もちろん、この取り組みで地域住民たちが互いに顔を合わせる機会も増え、顔の見える関係のさらなる構築に繋がってくれる。我が町では今、この防災マップ作りを通して次なるステップへ向かおうとしているところだ。
あの日から一年が経過した。町は通常の生活を取り戻したかと思えるほど、穏やかな時間が流れている。しかし、見渡せば至る所に爪痕が残るのも事実だ。自分自身が被災者という立場で災害と向き合うことになり、今まで以上に防災について考えるようになった。がむしゃらに走り続けてきた一年だったが、振り返れば「できなかったこと」のほうが多いように思える。そして、この経験から強く考えたことが「逃げる」ことの大切さだ。「自分の命は自分で守る」といえば難しく聞こえるが、地域の皆で声を掛け合い、危険が迫っているとわかったならば余計なことを考えずに逃げればいいのだ。
2回目となる防災マップ作りのための町歩きに集まった地域の方々から、うれしい言葉を耳にする機会を得た。その数日前にあたる6月6日の夜に、広島市から「翌未明から1時間最大30ミリの降雨が予想される」という大雨に関する注意喚起情報が発表された。これを受け、町内の人々は率先して避難をしていたのだ。「避難所が開く前から避難しとるよ」「〇〇サンはもっと早う逃げんとダメよ」といった会話を住民の方々が口にしていた。私が「何も起こらんかったですが、無駄じゃったですか?」と尋ねると、「いいや、ええ避難訓練になったけぇ」というありがたい言葉が返ってきた。私が目指し、そして育んでいかねばならない防災の「空気」がそこにあった。
災害をゼロにすることはできなくても、人的被害ゼロを目指すことはできる。そのためにできることを考え、そして発信し続けていくことが、今の私に課せられた使命だと考えている。
──終
写真・文:伊木則人
構成:木下慎次
初出:2019年07月 Rising 夏号 [vol.14] 掲載