あの日の広島 それぞれの想い 第四回(最終回)

 平成30年7月6日。その日は大雨が降るとの予報が出されていた。西中国山地の中心部にある広島県山県郡安芸太田(あきおおた)町で長年にわたり消防団に所属している齋藤直将も、地元の警戒活動にあたっていた。
 幸いにも安芸太田町では大きな被害は発生しておらず、消防団はいざに備えての待機を行っていた。情報収集のためにつけているテレビのニュースで広島市安芸区矢野東に大きな被害が出ていることを知り、不安がよぎった。そこは消防団員をしている縁で知り合った15年来の友人が暮らしている場所だったからだ。友人はその日、関西方面に出張へ出ているはず。だからこそ、友人の家や家族の状況が心配になった。電話をすると、友人は広島へ向け戻っている最中だった。自宅や家族は難を逃れたものの、周辺は土砂崩れが発生してとんでもない状態になっている。「助けが必要な状況。被害状況の写真を転送する」とのことで一旦電話を切った。
 この年の3月、安芸太田町は記録的な豪雪に襲われた。その時、仲間とともに除雪に駆けつけてくれたのがこの友人だった。
「大変な時に助けてくれる─。人の繋がりのありがたみをあらためて実感した」
 だからこそ「今回は自分が動く番」「何とか力になりたい」「建設業で積んだノウハウが役に立たないか」と考えた。
 しばらくして届いた画像を目にし、齋藤は言葉を失った。暗闇で全容はわからないが、土砂や水で埋め尽くされた道路や巨石など、常識的にはありえない光景が写し出されていた。再び友人に電話をした。「状況はわかった。だが、道路が寸断されているんじゃないか?」と尋ねると「その通りだ」と言う。発災直後であり、この段階では道路が方々で寸断状態となっていた。まだ行くことはできない。「情報だけは逐一くれよ」と伝えた。

 

 

平成30年3月に安芸太田町が記録的な豪雪に襲われた。その時雪かきに協力してくれた友人のもとへ、今度は自分が駆け付けた。

 

 

現地入り

 齋藤は建設会社に勤めている。この頃工事を行っていた建設現場も雨の影響を受けており、作業再開に向けた復旧を行わねばならない状態だった。8日から10日にかけてその復旧にあたり、工事再開の目途がたった。また、友人からも「安芸太田町から安芸区矢野東まで通れるルートができた」との知らせが入る。会社の社長に事情を説明し重機と搬送車輌を貸してほしいと願い出ると、快諾が得られた。
 近隣地域で消防団に所属する共通の友人に声をかけると、自分も仲間とともに炊き出しに向かうという話になり、一緒に向かうことになった。1秒でも早く、そして長く現地活動ができるようにと、仕事が終わるとそのまま準備を行い、出発した。
 日付が変わった11日の深夜2時頃、安芸区矢野東の友人宅に到着した。自宅周辺は壮絶な状況となっており、想像を超える被害が広がっていた。齋藤は所属する建設会社での仕事として、土砂災害後の現地に砂防ダムを建設するといった工事にも携わってきた。「被災地」に足を踏み入れることは幾度もあったが、それは応急的な復旧を行った後の現場であり、爪痕は残っていてもある程度は「片付いた」状態となっている。今自分が立っている場所は、発災直後の状態で止まった現場。初めて目の当たりにする状況に、あらためて「大変なことが起こっている」と実感した。
 友人宅でミーティングを行い、わずかな仮眠をとるとすぐに日の出の時間となった。共に駆け付けた仲間は炊き出しの準備を進め、現場に入る齋藤は友人とともにまずは町内会長などに挨拶を行い、重機による活動をスタートさせた。

 

 

職場で借りることが出来た重機と搬送車輌。これが復旧に大いに役立った。

 

 

道路啓開に全力を注ぐ

 この段階でまだ活動要員が捜索ポイントに至る動線が確保されておらず、思うように捜索活動も進んでいない状態だった。優先して行うべきは道路啓開。これができれば捜索活動のための人員も今以上に入れるようになり、また、瓦礫や土砂などの搬出もスムーズになるはずだ。そこで、生活道路のうち主となる道の啓開を始めた。
 齋藤はこれまでも友人宅にたびたび訪れている。記憶の中のかつての光景から大きく様変わりしてしまった目前の光景に、胸が締め付けられる思いがした。道路上は土砂とともに倒壊した建物や自動車などが埋め尽くしていた。7月の厳しい日差しが照り付ける中、齋藤はショベルカーを巧みに操り、これらを除去していった。
「住宅街での初動活動ということもあり、持ってきたのは機動力のある超小旋回タイプといわれる小型重機。正解ではあったが、限界も感じた」
 例えば、土砂に埋もれた状態の自動車を排除しなければならない場面。その場に接近しようにも、クローラー(履帯)が泥に埋まり外れそうになった。また、アタッチメントはバケットのみ。土砂に埋もれた自動車を引き出すにはグラップル(つかみ機)があったほうが良いのだがその場にはない。そもそも、土砂を排除しながら徐々に自動車を引き抜かねばならないため、実際問題としてアタッチメントを都度交換していたのでは、道路啓開は一向に進まないはずだ。限られた装備での過酷なミッションが実現できたのも、齋藤が建設業で積んだノウハウがあったからこそであり、こうした場面も着実にクリアしていけた。
 そして、発災以降、気温が35度を超える猛暑の中で活動が続けられており、この暑さが思わぬトラブルの原因になりかねない状況だった。小型重機は機体が小さいだけに、エンジンや油圧系が詰め込まれた構造。炎天下で連続稼働させていると、日差しや気温の高さによりエンジンが冷えないためオーバーヒートとなる。現場で活動をする人間と同じく、機械の「体調」に留意しながら活動を続けた。
 圧倒的な土砂や障害物の量と、容赦なく襲う暑さで、思うように活動は進まない。また、自治体による搬出した土砂の受け入れが17時までだったため、活動時間にリミットがあった。

 

 

土砂に埋もれた自動車の撤去など、重機を巧みに操り状況に対応していった。

 

 

誰かの幸せのため

 当初は2~3日程度の集中的な活動を考えていたが、現場の状況を肌で感じ、可能な限り活動を行うと考えた。その結果、12日から16日までの5日間、友人宅に寝泊まりして活動を続けた。
 最終日に、テレビの取材を受けることとなった。普段の仕事や消防団活動などであれば裏方に徹し「自分が表舞台に立つべきでない」と断るところだったが、被災地の状況を広く知ってもらうことが復旧に役立つのではと思い、また、泥まみれになりながら現場の状況を発信してくれる報道陣への敬意と感謝の気持ちから、今回は協力した。昼の休憩時にインタビューを受け、情報番組で生放送された。直後に、思わぬ反応があった。地域住民らも昼食のために一旦自宅などに戻っており、この情報番組を見た人が多かったようだ。そして、先日から熱心に活動してくれているこの人が、ボランティアで安芸太田町から来ているということを、テレビを通して初めて知ったのだった。午後の活動時は、出会う地域住民らから「遠くから来てくれてありがとう」という感謝の言葉をいただいた。
 やり残したことはまだあるが、いよいよ仕事に戻らねばならぬ時期。重機の撤収を行っているところに、近所に住むご婦人から思いがけない声をかけられた。感謝の言葉に対し「いろいろ残っているのにごめんね」と返すと、目を潤ませながら「誰に頼んだら明日も来てくれますか?」という。これまでの仕事ぶりや齋藤の人柄に安心感や勇気をもらったという。なので「あなたに残ってほしい」というのだ。ご婦人のありがたい言葉に、齋藤の目からも涙がこぼれそうになった。ここで無理をしてどうにかなる状況でもなく、後悔は残るが無理はすべきではない。自分自身に言い聞かせながらご婦人に事情を説明し、後ろ髪を引かれながら現地を後にした。

 

 

現地は道路が埋め尽くされた状態。道路啓開活動をひたすら続けた(写真左)。現地の状況を伝える意味で、メディアの取材にも協力した(写真右)。

 

 

生かされ、活かされている

 齋藤をはじめ、多くの人々がそれぞれの想いを胸に、西日本豪雨災害の現場にてボランティア活動にあたった。発災から2年が経過した現在も、被災地には大きな爪痕が残っており、元の状態に戻るまでにはまだまだ時間がかかるのが現実だ。だが、広島市安芸区矢野東などではボランティアの力により驚異的な速度で初期復旧が進められ、本格的な復旧や復興に繋ぐことが出来たという事実がある。
「今回のボランティア活動が出来たのは、行かせてくれる人達がいたからこそできたこと。どれだけ自分の想いがあっても、1人では何も出来ない。ボランティアでの長期不在を許可してくれた会社、同僚、部下。そしてしばらく家を空けることを許し、家族を守り、快く『行っておいで』と背中を押してくれた妻。こうした理解と助けがあったからできたことであり、本当に感謝している」
 周りの皆に “生かされ” “活かされ” ていると心から想う。だからこそ「困ったときはお互いさま」で助け合うのだと、齋藤は語った。

 

 

齋藤の手により切り拓かれた動線。「希望への道」として地域住民に勇気を与えた。

 

 

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インタビュー・文︓木下慎次

 


初出:2020年10月 Rising 秋号 [vol.19] 掲載

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