3.11 東日本大震災を忘れない[岩手県] interview #01

平成23年3月11日14時46分、金野隆博消防司令(現・消防署副署長)は庁舎2階の事務室にて執務中に突然の揺れに襲われた。数日前にも大きな地震があったが、それよりも大きい揺れ。消防長の「震源地、宮城県沖!」という大きな声が聞こえた。
机や書棚を移動転倒させる勢いの揺れが長く続いた。同市では震度4以上で直ちに津波対応をとる。揺れが続く中、なんとか立ち上がれる状況になると、金野は庁舎1階の通信室へ向かった。

 

 

通信室ではあらゆる機器からアラーム音が鳴り響き、机も壊れ、書類等が散乱して足の踏み場もない状態だった。金野や当直職員は事前命令に従い、防災無線にて市内約150ヶ所の水門閉鎖指示と避難勧告の広報を行い、水門遠隔操作卓により閉鎖操作を行った。その最中に、テレビが「大津波警報」が出ていることを伝えた。
想定されている宮城県沖地震による津波では、同本部庁舎で50㎝から1mの浸水が想定されていた。庁舎1階にある通信室、非常用発電装置、そして車庫の車両は使用不能となってしまう。そこで、1階の通信室機能を2階へ、車両は高台にある市立学校給食センターへ機能移転させるための計画を作り、訓練を積み重ねていた。
震災の約1年前にあたる平成22年2月25日18時30分には、全職員を対象としたブラインド訓練を実施。当番隊は津波到達までの30分間に行う防災無線での避難勧告、水門遠隔操作、救助、救急、火災対応のうち、何ができるか、何ができないかを実働訓練により洗い出していた。その上で、車両の選別を行うと共に当番隊ごとに消防署機能移転訓練を随時実施。文書によるマニュアル化はせず、全員が身体で覚え、臨機に行動できる体制を構築していた。

 

津波が街を飲み込む

消防職員・団員は消防計画で震度4以上で招集される。この登庁した非番職員は順次、消防車両・資機材等の消防署機能移転活動を実施する。通信室では金野らが、遠隔操作水門閉鎖が全て完了した後にモニターでの海岸線監視を行っていた。引き潮が確認できた。先人の話や過去の文献では「魚が手で獲れるほど水が引く」と言われていたが、目にするのは初めてだ。その数分後に津波が襲来。5・5mの防潮堤を超えた。「防潮堤を超えたぞ! 放送に加えろ!!」

 

12名は無線鉄塔上部のキャットウォーク部分に避難した。

状況を逐一防災無線にて広報させる。次の瞬間、モニターが次々とダウンする。カメラが津波に破壊されているのだ。50㎝から1mの浸水想定どころではない。消防庁舎は海岸線から1㎞ほど内陸に位置している。状況を把握しようと金野は庁舎前の通りに出た。すると、200m程先まで津波が押し寄せてきており、電柱をなぎ倒し、建物を破壊している。それに追われるように民間人2名がこちらに向かって逃げてきていた。周囲に高い建物はない。「入れ!」と声をかけると、この民間人と共に庁舎2階へ駆け上がった。

 

恐怖の先にある惨状

防災無線による広報や他機関との連絡、周囲の状況監視などで9名の職員が庁舎に残留しており、市役所からの連絡員と駆け込んできた民間人2名の計12名が避難すべき時期を失し、庁舎2階屋上に避難することとなった。しかし、津波はどんどんと波高を高める。そこで、ペントハウス状の3階屋上部分に上がるが、それでも足りない。最終的にはその上に建つ、庁舎で一番高い無線鉄塔に登るしかなかった。
目前では、言葉で表現することが困難な光景が広がる。津波は全ての構造物を瓦礫と化して庁舎に衝突する。鈍い衝突音と衝撃で庁舎が崩壊する危険を感じるが、何もできない。「人は助かる、逃げられると思える状況で恐怖を感じるそうだ。あがなう事ができないこのときの状況では恐怖という感情も起こらず、驚くほど冷静でいられたことを覚えている」
津波襲来の一部始終を目の当たりにしていたが、それが第何波であるかはわからなかった。ただ、第1波襲来からの10分弱で、陸前高田の街は瓦礫の海に姿を変えてしまった。

 

市立学校給食センター。タイヤを積み上げ、そこに板を載せて作戦卓を作るなど、臨機応変な対応が求められた。

機能移転先の市立学校給食センターへ一刻も早く向かいたいが、ガレキや浸水、そしてまだまだ襲ってくる津波により庁舎を出ることすらできない。日没が迫る中、保安帽のヘッドライトの明かりを頼りに2階屋上のガレキを整理し、夜を明かすためのスペースを作った。すると、1㎞程離れた辺りで飛行していたヘリがこちらに機首を向け接近してくる。偵察を行っていた航空自衛隊三沢ヘリコプター空輸隊の大型ヘリコプター「チヌーク」だった。暗闇の中で動くヘッドライトの明かりをキャッチし、救出に駆けつけたのだ。この自衛隊ヘリに12名全員が救出され、機能移転先となっている学校給食センターへ向かうことができた。
非番職員により消防署機能移転が完了し、駆け付けによる救助・救急対応や避難所確認、受け入れ可能な救護所等の確認の活動が行われていた。

 

長い戦いの始まり

発災翌日からは緊急消防援助隊による活動も展開。あまりの被害の大きさから受援(野営地確保)なども苦慮したという。

庁舎全壊によりほぼ全ての通信機能を失った状況だったが、車両の搭載無線や携帯無線機が運用できたのは不幸中の幸いだった。これにより隣接消防本部に対して孤立地域への応援出動要請、隣町への食糧支援要請を実施。消防団無線を活用して孤立地域の状況把握・救助・救急・火災の通報に活用した。
津波襲来後は市内各所で救助案件が発生しているが、消防が対応できるのはその一部。津波は繰り返し押し寄せるため、瓦礫の中からの救出は時間との戦いになる。救助活動中も第2波、第3波と思われる津波が押し寄せる。救助資機材を活用した活動は不可能で、要救助者を瓦礫から引き出し、徒手搬送することが精一杯だった。消防団員らも親族や近隣の者が被災している中で必死に被災者を救出し、可能な限りの対応を行った。
翌朝には緊急消防援助隊や自衛隊の応援を得て、本格的な救助活動がスタート。不眠不休の活動の日々が続いた。

緊急消防援助隊として千葉県隊(写真)に加え、山形、福井、埼玉、宮崎の各県隊が活動した。

この災害により、高規格救急車を機能移転する最中に渋滞に遭い津波に巻き込まれ、消防職員1名が殉職している。この高規格救急車1台、そして指揮車1台が被災し、庁舎も全壊した。消防団の被害も大きかった。在籍消防団員のうち51名が死亡、または行方不明。このうち、水門閉鎖後に市民の避難誘導中に被災した34名の消防団員が殉職している。車両もポンプ車4台、積載車7台が流出全壊。消防屯所は33ヶ所中16ヶ所が流出全壊した。「こうした中で、全国から駆けつけた緊急消防援助隊をはじめとする応援の手が非常にありがたかった。微力ではあるが、恩返しをしていきたい」
全国からの支援に対する感謝を忘れず、焦らず、一歩一歩前進して行く。最後に金野は、力強くこう語った。

 


 

日々変わる地理・道路状況

震災を経て街の姿が激変し、復興にあわせて道路状況も日々変化する。昨日通れた道が翌日なくなり、新たな道が整備されてるということが毎日のように起こる。こうした現実は、消防にとって非常に悩める事態といえる。陸前高田市消防本部では庁舎の新築整備にあわせて高機能消防指令システム(離島型)を導入しているが、このシステムは地図情報をベースに災害点の決定や部隊選別が行われる。つまり、街の変化を逐一システムに反映させなければ本来の性能を発揮できないのだ。そこで、同本部では各部隊が地水利調査を毎日のように行い、システムの地図修正機能を用いて日々データ上に「街の変化」を反映させている。こうした苦労により被災地特有の問題をクリアし、市民の安全と安心を強固に守っているのである。

 


 

 

陸前高田市消防本部

佐々木 誠 消防長

「平成30年まで続く復興計画。高台化を含めた区画整備もまだ半数とまだまだの状態。行方不明者も200人ほどいらっしゃる。だが、街づくりは着実に進んでおり、日々表情を変える。道路や建物の変化を常に把握しておかねばならない。陸前高田市は3・11であらゆるものを失った。そして、消防や警察、行政庁舎や病院といった施設がダウンすることは、復旧復興に甚大な影響を及ぼすことを身をもって体験した。だからこそ、災害拠点の強化、災害に強い街づくりに力を注いでいる」

 

 


 

現場写真提供:陸前高田市消防本部

インタビュー:伊木則人(株式会社ライズ・代表取締役)

文:Rising編集部

 

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