3.11 東日本大震災を忘れない[岩手県] interview #02


消防団員歴が60年に及ぶ山下修治団長。宮古市は平成の大合併で宮古市・田老町・新里村・川井村が合併して現在の広大な市域となり、消防団も各地区ごとに計45分団が組織されている。山下はそのトップとして、東日本大震災発生時は消防本部に置かれた対策本部に詰め、指揮を執った。
住民の避難誘導や水門閉鎖を行った消防団員の中には、水門を閉鎖し終えると同時に津波が襲来し、高台に避難することも出来ずに防潮堤の一番高い場所に駆け上がり、雪が降る中、午後九時頃まで降りることが出来なかったといった場面もあった。また、動くことができる団員については、被災した人々をある程度救助することができた。瓦礫の中からも救助することができたのも、発災時間が日中であり、周囲の状況が見えていたため。「これが夜間の発災であったと考えると背筋の凍る思いだ」と振り返る。
2日目からは、各分団員は早朝より救助・救出・捜索活動にあたった。幸いにも旧宮古市では震災直後の火災がなく、活動に専念することが出来た。しかし、田老地区では建物火災から延焼して山林火災が発生し、加えて消火活動が思うように出来ず、また、消防ポンプ自動車も流出破損して消火作業自体にも手間がかかるという状況に襲われていた。そこで、被害を受けていなかった第七・第八方面隊の四個分団を指揮し、岩泉町方面から迂回させて投入し、消火活動にあたらせた。
この災害で改めて思ったのが団員の安全確保の重要性だった。「赤い半纏を粋に感じ、水に入ってでも助けるという考え方は通用しない。自己の安全確保が第一。津波到達前に高台へ逃げろと言っていたのだが…」と、山下は悔しそうに話す。この災害を契機に、宮古市でも津波到達予想の10分前に高台へ避難する、いわゆる「撤退ルール」が定められた。「今回の大震災を教訓とし、私たち消防団はさらに切磋琢磨していかねばならない。市民の生命・身体・財産の保護のためにも、二度と消防団員が犠牲にならないよう、訓練や教育を続けていかねばならない」
誓いを新たに、宮古市消防団は更なる進化を目指す。

 

3時30分頃に漁協ビルから撮影。藤原ふ頭を見ると大津波が街を飲み込んでいた。

見慣れた住宅街が、一瞬にして見渡す限りの瓦礫の山と化した。

 


 

現場写真提供:高田由美さん

インタビュー:伊木則人(株式会社ライズ・代表取締役)

文:Rising編集部

 


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