あの日の広島 それぞれの想い 第二回
2009年(平成21年)7月のある日。テレビの前で、中村雅彦はニュース映像を見ながら唇を噛み締めていた。平成21年7月中国・九州北部豪雨。7月19日から7月26日にかけて、中国地方から九州北部にかけて激しい集中豪雨が襲った。21日には山口県防府市にある特別養護老人ホームの裏で大規模な土石流が発生。施設の1階部分を襲い、入所者7名が生き埋めとなって死亡した。土砂に埋め尽くされ、水が激しく流れる施設内の映像が、テレビに繰り返し映し出されていた。中村は日本国内にある海外の消防組織に所属する消防職員で、山口県岩国市に住む。県内で発生した大規模災害に対し、自身に何かできることはないのかと考えていた。
「ボランティアに行こうと思いましたが、単身乗り込んだところで何ができるだろうかという迷いもあり、踏み止まってしまいました。それが後悔として胸に残っていました」
もし次に何かあれば、迷わず行こう。そう心に決めていた。それから5年が経った2014年(平成26年)、8・6 岩国和木豪雨災害が発生する。自らが暮らす地元で発生した大規模自然災害。中村はすぐさまボランティア活動に向かった。
「そこでの活動や経験、知り合った一般ボランティアとの会話により、自分にもやれることがあると確信しました」
この数日後には、平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害(8・20土砂災害)が発生。現場では消防OB・現役消防職員が余暇を使い全国でボランティア活動を行う災害ボランティアドリームチーム『集結』が活動を行っていた。同じく駆け付けた中村はこの現場にて『集結』と出会い、活動に参加。以降、中村も『集結』のメンバーとして活動に参加するようになった。
消防系プロボノとして
以降、西日本地域において続発した大規模自然災害の現場へ、中村はボランティアに駆け付けた。そうした中で、平成30年に西日本豪雨災害が発生。大きな被害を受けた地域には中村の知り合いが多くいた。
「身近な人がいる、広島県の府中町と広島市に行こうと思いました」
まずは自宅のある岩国市から近い府中町に入り、ボランティア活動を始めた。ある現場で土のうによる擁壁作りを行うことになった。活動を共にする一般ボランティアは、どんどん積むだけ。一見すると強固な壁に見えるが、ただ積むだけでは水の力で崩れやすく、また、土嚢の間の隙間から水が抜け出してくる心配があった。ここで活かされたのが、中村の持つ消防の知識や技術だった。
中村が所属する消防組織においては、ハズマット技術(毒劇物対応などの特殊化学災害対応技術)の1つとして、土のうにより溜池を設定し液状の流出物を留めて回収するといった手法があった。水防における土のう工法や自衛隊が行う土のう工法とはまた違った、消防ならではの強固かつ流出を防ぐための工法(手法)と言える。活動を共にする一般ボランティアに手法を伝えつつ、作業を進めた。消防系プロボノが復興支援に加わる強みは「彼らにしか対応できない局面への対応」に限らない。ロープ結索といった単純な手技から、こうした土のう積みの方法まで、消防が得意とする技術などを一般ボランティアに伝えることが出来るというメリットがあるのだ。災害対応に強い人材の育成といってはオーバーだが、少なくともその一助になっているといえるだろう。
職人技を活かす
府中町での活動が落ち着いてきたことを受け、中村は知人がいる広島市安芸区の矢野東7丁目へと転戦を図る。発災から一週間ほどが経過した7月13日に、自宅のある岩国市から広島市へと車で向かった。
「この頃は想像を絶する道路渋滞が発生していました。とにかく車が動かない。そこで、次からはバイクで通おうと思いました」
渋滞により移動時間を取られてしまっていては活動時間が削られてしまう。はやる気持ちを抑えつつ、何とか矢野東7丁目へ辿り着いた。この地域は避難指示が出ているために一般ボランティアが入れず、住民が力を合わせて復旧活動を行っていたが、すさまじい土砂の量を前に復旧活動はほとんど進んでいない状態だった。幸い、地元自治会が重機とダンプを調達していたため、中村はこれを活用しての道路啓開を直ちに開始した。
ここで、中村のもう一つの「顔」が活かされた。中村が所属する消防組織は副業が許されており、かつ、消防業務に活かせるような技術を養うことが出来る副業に就くことが推奨されていた。そこで中村は副業として水道工事を行っており、重機の免許も20年前に取得。消防人でありベテラン重機オペレーターであるという2つの顔を持っていたのだ。
中村が操縦する重機はすさまじいスピードで道路上の土砂を除去し、コアストーンや車両などを移動していった。無数にあるコアストーンの移動もコツがいる。重機初心者はバケットの上に載せたまま移動しようとするが、これでは旋回時に落下するリスクがある。バケットに差し込むようにすくい上げるのがポイントだ。また、ダンプへの積み込みも注意が必要。そのまま重量物を載せるとデッキ(床板)が壊れてしまうので、まず土をクッション代わりに敷き、その上に載せる。こうしたコツも慣れた者ならわかることだった。
想い出を、救う
公休日で副業の休みが取れた日に、バイクで矢野東7丁目へ通う生活が続いた。
道路啓開に続いては、住宅やその敷地から堆積した土砂などを除去し、元の地盤面や床面を出す作業にあたった。手掘りで数時間かかる作業も、重機を使えばあっという間に済む。宅内からの土砂搬出にも重機が活用された。しかし、これにもコツがいる。住宅の掃き出し窓などからアームを差し込んで作業するのだが、同じ地盤面に建物と重機が位置しているのであれば、窓枠や宅内の梁などに重機のアームがヒットしてしまう。そこで、重機部署位置の地盤面を掘り下げてから活動を始めるのがコツだ。矢野東7丁目には中村の他にも重機系プロボノといえる人々が支援に入ったため、重機の能力を最大限に生かした迅速な復旧活動を進めることができた。
ある日、重機による活動をしている中村に、近くに住む女性が『ここを掘ってもらえないか?』と声をかけてきた。「細い生活道路を、2mを超える高さの堆積物が埋めていた。破壊され流された家の梁などが引っ掛かり、それに詰まるかたちで様々なものが堆積していました。その現場より少し高台に自宅があったという女性に、ここから自分の家の物が出ているので掘ってほしいと頼まれました」
中村はすぐに、捜索モードに作業を切り替えた。表層の堆積物を削るように除去すると、その女性らが細かくチェックする。掘り進めていくとアームが届かなくなるので、重機の部署位置も掘り下げながら作業を進める。単純な堆積物除去に比べてはるかに時間がかかるが、とことん付き合った。
「しばらくすると、泥にまみれた一枚の布を発見した。ご主人が海上自衛隊のOBとのことで、記念に同僚から貰ったという日章旗が見つかりました。女性やご家族の喜んでいる顔を見たら、お手伝いできて良かったと、こちらも嬉しくなりました」
啓開や堆積物の排除を行うのが全てではなく、こうした活動こそボランティアの成せることであると中村は言う。「復旧作業に入っている一般業者からすれば、これらは全て除去すべき災害ゴミかもしれません。でも、家人にとっては想い出の詰まった宝物に他ならない。だから、とことん捜索し、救出する。こうした気持ちで活動するから、見えるモノもある。被災者の想いが見えてくる。なにより、私たち消防人はそれに気づかなければならないと思います」
人を思いやり、人のために動く。ボランティアの活動は消防活動の本質に通じる部分があるのだ。
今では、ボランティア活動は自分のライフワークになっていると話す中村。決して無理はせず、「できる人」が「できる時」に「できる事」をやるという3原則を自らで決めているという。
「災害復旧や復興の応援には、色々なカタチがあるはずです。義援金を贈ることだって大きな支援に繋がりますし、現地に行って汗を流すことだけでなく、被災地の人々と会話し、愚痴を聞いてあげるだけでもだいぶ違うはず。支援のカタチは色々あります」
世間への恩返しという気持ちで、自らにできる事は何かを考え、できる事を無理せずやる。そうした想いを胸に、中村はボランティア活動を行っている。
インタビュー・文︓木下慎次
初出:2020年1月 Rising 冬号 [vol.16] 掲載