3.11 東日本大震災を忘れない[岩手県] interview #03

宮古市で女性初の消防団本部付班長として活動する高田由美。喫茶店を営む彼女は、ランチタイムの忙しさがひと段落したタイミングで地震に遭う。まだ数名いた客の安全を確認すると帰宅を促し、店を閉めてまずは自宅へ向かった。高台にある自宅や実家は地震による大きな被害もなく、家族も無事だった。そこで高田は消防団員として活動すべく、消防本部へと向かった。
消防本部に車を置いてから、日没まで住民の避難誘導や避難所の見回りを実施し、消防本部に戻る。確実に夜通しの対応になる。そう思った高田は、団長に夜食が必要ではと進言する。夜食に関してはインスタントラーメンにてしのぐこととなったが、明朝までに活動隊員や対策本部要員の食事としておにぎり800個を作れないかと話があがった。併設された消防署の厨房にて、ヘッドライトの光を頼りにおにぎりを作り続けた。ありったけの米を使ったが、結果は300個しか用意できなかった。
以降、高田は活動に当たる消防職団員、各地からの応援部隊のために連日炊き出しを行った。「みんな被災していた。家族の心配や家のことをしたい気持ちを抑え頑張っている姿を見て、自分にできることは何かと考えた」
朝5時から夜10時まで消防署の厨房に詰め、炊き出しを行う。緊急消防援助隊が持ち込んだ食材を提供してくれたり、近隣の肉屋や魚屋が「このまま傷ますなら使ってくれ」と食材を提供してくれた。とはいえ、食材は潤沢にあるわけではない。ある日は10箱のカレールーを小麦粉でのばしてカレー風の汁物を作った。またある日はパワーになる揚げ物をと考え、椎茸の天ぷら1つを出した。
東日本大震災で活動した多くの隊員が「暖かい食事」で活力が沸いたと振り返る。宮古市の場合、この炊き出し活動が功を奏したのは言うまでもないだろう。さらに、活動隊員らが食事という手間に労力を割かず、現場活動に集中できたと言う点も大きいはずだ。
高田の母心から始まった炊き出し活動。自身は当時を振り返り「隊員の皆さんと仲間になれた気がする。あの活動がなければ、今の自分はないと思う」と話す。

 

およそ1ヶ月弱に渡り炊き出しを続けた厨房。100人超えに対応する設備ではないため、米も一日中炊き続けるという状態だった。

自衛隊と宮古大工組合による捜索活動。

 


 

まちの記憶を残す──

高田由美さんが営む喫茶店「アムール」には、貴重なアルバムが置かれています。
これは高田さん自身が撮影した写真や、地元の知り合いなどから集めた写真にひとことを添えて、東日本大震災直後からの岩手県宮古市鍬ヶ崎地区の様子を一冊に記録したもの。
発災時に何が起こり、その後、まちがどう変化していったか。
次のページでは、そのアルバムをデジタル化し、公開しております。

 

 

アルバム『2011.3.11 東日本大震災 <鍬ヶ崎>』はこちらから
 

 


 

現場写真提供:高田由美さん

インタビュー:伊木則人(株式会社ライズ・代表取締役)

文:Rising編集部

 


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