地域の安全と安心、そして【伝統】も守る! 盛岡市消防団・南部火消伝統保存会

 

岩手県の盛岡市消防団では、一般的な消防団活動に加え「南部火消し」の文化や伝統を絶やすことなく後世に継承すべく、独自の取り組みを行っています。
こうした考え方は団員の一人ひとりにしっかりと根付いており、各分団においてもその意識が受け継がれ、それぞれに活動を続けてきました。
地域の安全と安心はもちろん、伝統も守る消防団の取り組みを紹介します。

 

南部火消伝統保存会

 

昭和50年代後半の秋祭りの際、山車の出演台数が少なく「このままでは先行きが思いやられる」との声が聞かれていました。そこで、消防団として毎年ある程度の台数を出演させることで祭りを盛り上げようと「南部火消伝統保存会」が誕生。初代会長の小泉氏により同会の礎が築かれ、2代会長の熊谷氏により昭和61年11月に組織化しました。

平成元年の盛岡市市制100周年の行事において、2代会長・熊谷氏の命で30年ぶりに「梯子乗り」が復活し、これを期に、藩政時代以来伝わる「南部火消し組」の伝統行事「山車運行」「纏い振り」「梯子乗り」「裸参り」がすべて復活を果たしました。同年8月10日には南部家45代当主の南部利昭公より南部家家紋(向い鶴)の使用許可を賜り、袢纏(はんてん)に使用してます。

これら伝統行事を市民の悠久の財産として保存・伝承に取り組みながら、消防特有の伝統文化を通して消防団に対する市民の理解を深め、合わせて地域防火意識の高揚に努めています。

 

歴 代 会 長
初代会長 小泉 久仁雄
2代会長 熊谷 祐三
3代会長 吉田 長一
4代会長 石川 清蔵
5代会長 西村 紀昭
6代会長 藤澤 良悦

 

表 彰 な ど
平成18年 日本消防協会表彰「地域活動表彰」
平成21年 盛岡山車300年、盛岡市制120年を記念して山車奉納
平成21年 盛岡ブランド表彰「もりおか暮らし物語賞」受賞
平成22年 盛岡市市勢振興功労者表彰受章
平成23年 山車奉納(東日本大震災からの復興を祈願して)
平成24年 東北六魂祭山車出演(震災被災地官古市消防団幹部と共に)

 

 

 

南部火消しとは?

寛永18(1641)年1月、江戸京橋桶町から出火した大火の際、当時江戸屋敷で謹慎中の身であった南部藩主重直公は、あえて禁を犯して家臣とともに町に飛び出し、勇猛果敢な活躍でこの猛火を食い止めました。将軍徳川家光公は、この活躍を激賞して直ちに重直公の謹慎を解くと、恩赦に感激した重直公と家臣たちは、以後消防の任務を熱心に研究したそうです。その後も世界三大大火の一つに数えられる「明暦の大火」での活躍をはじめ、江戸における南部藩の消防の功績はめざましく、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた江戸で、「南部火消し」はその名声を大いに轟かせたと伝えられています。

 

盛岡の町火消の先駆けは、天明3(1783)年に創設された「いろは組」と「ゑ組」で、文化10(1813)年の時点では、8組960人で組織されていたと記録にあります。「町火消組」は明治10(1877)年に「消防組」に改称され、第二次大戦下の「警防団」と呼ばれた時代を経て、昭和22(1947)年4月30日に「盛岡市消防団」が14分団体制でスタートしました。

 

纏について

 

町火消しが組の目印(シンボル)として用いたのが纏(まとい)です。
縫はもともと群雄割拠の戦国時代に、戦場で敵味方の識別に用いたもので「的率」(まとい)あるいは「馬印」(うましるし)と称していました。
江戸時代に入り泰平の世が続くと、武家の的率は使われなくなり、これに代わって火消しが火災現場で用いる標具となりました。
この纏いを初めて使ったのは大名火消しだと言われていますが、定火消しの消防屯所でも玄関敷台の右わきに定紋をつけた銀箔地の纏を飾り、厳めしい火事場装束に身を固めた侍たちが待機してたといいます。
町方火消しが誕生して間もなくの享保5(1720)年4月、大岡越前守は町火消しにも纏を持たせ士気の高揚を図り、それ以降、纏を保持するようになりました。最初は「纏幟」と言われたのぼり形式のもので、馬簾(纏に垂れてる細い飾り)はなく、今日のような形の纏いになったのは享保15(1730)年の頃です。
纏の標識部を「陀志」(だし)と呼び、それぞれ組の土地に縁のあるものや大名の紋所などをデザイン化したものが多く使われています。盛岡藩においては第3代藩主の重直公が全国で6番目の早さで定火消しを創設。盛岡に永住した加賀鳶職人の伝之丞が十三日町、惣八が馬町に「いろは組」を結成し、弟分の甚八が油町に「ゑ組」を結成。御用火消しの拝命に際し「いろは組」に金馬簾の纏を、「ゑ組」に銀馬簾の纏を下賜されました。

縫の振り方は盛岡独特の「南部のやっこふり」として広く知られ、東京都(江戸)や金沢市(加賀)の振り方とは全く異なります。
現在では消防演習や火防祭、家族慰安会などで纏振りを目にすることができます。

 

纏の振り方について

 

基本姿勢 纏はまっすぐたてて持ち、できるだけ胸を張ること。
(猫背になり纏を背負わない)
纏はできるだけゆっくり振ること。
(馬簾を広げる為に体を早くひねりすぎないこと)
体の向き、足の向きは「逆ハの字」を心がけること。
足の運び 足は上げない事。(すり足)
足の運びを利用して馬簾を広げる。
手の上げ方 左手は、左足を踏み出す足の運びに合わせて脇の下から斜め前方に振り上げる。その際こぶしは握ること。
振り上げる時以外は、手を後ろにまわし、ひねるようにささえながら振ると馬簾が広がり(上がり)やすい。
*ただし、初心者は片手で振ることが難しいため、段階的に練習を重ねていくこと。

 

 

1. 纏いを両手で支えて持ち、足の運び・体の廻しを身に付ける。
左手でバランスを取り、右手首をひねるように支える。
2. 纏いを片手で持ち、左手はフリーの状態で纏いを振る。
慣れてきたら左手は腰の後ろにそえる。
3. 纏いを片手で持ち、左足を踏みだしながら手を挙げる。
4. 右足を踏みだし、左足を添えたら膝を曲げる。

 

〔ポイント〕

  • 足の形、体の向きが「逆ハの字」となることを意識する
  • 歩幅は大きくなり過ぎないように、足は上げない(すり足)

 

*その場で振る時も、足の踏み出しは行なうこと(前には進まない)

 

梯子乗りについて

 

盛岡の「梯子乗り」は約270年前の元文の時代(1740年頃)、盛岡藩第9代藩主の南部利雄公に加賀100万石藩主の姫君がお奥入れになる際に、加賀の国から同行してきた2人の鳶職人により伝えられたと云われています。
古くから出初め式や消防演習などで披露されてきた盛岡の「梯子乗り」は、しばらく途絶えた時期もありましたが、平成元年の盛岡市制100周年を記念して、盛岡市消防団で組織される「南部火消伝統保存会」により復活し、現在に至っています。
使用する梯子は長さが7.5m(ビル3階程度の高さ)あり、それを4.3mの「長とび」4本、2.35mの「中とび」4本、2mの「根とび」4本、合計12本により、12~16人の勢子衆で梯子を支えます(演技者が複数上がる場合は長とびに2人ずつが加わり、計8人で支えることもあります)。
梯子乗りは演技者と勢子衆が一心同体となり行われます。演技者は17段を素早く駆けあがり、手木の合図で演技名を紹介されると勢子衆が「ようございましょう」と掛け声をかけ、華麗な演技が披露されます。
梯子乗りの演技は約70種類あるといわれていますが、南部火消伝統保存会では基本演技として「遠見」「邯鄲夢の枕」「腹亀肝つぶし」「金の鯱鉾」「義経の八艘飛び」などを組み合わせて演技を行っています。

 

 

盛岡山車について

 

宝永6(1709)年9月14日、盛岡藩二十万石城下町二十三ケ町の町造りが完成したのを祝い、全町の若衆がそれぞれ趣向を凝らした丁印を引き出し、八幡宮に奉納して三日間にわたり城下目抜き通りを練り歩いたのが盛岡山車の始まりと伝えられています。
山車は天(松・桜・藤・牡丹・笹)・人(人形)・地(岩)・海(波・しぶき・滝)の法則で有名な武将や歌舞伎、歴史上の名場面をモチーフに飾りつけ、豪華絢欄さを競っていました。明治時代には山車の高さが6~7m位あり、こぞって高さが競われたようです。大正時代になると山車の高さも4m程度になり、ほぼ現在の大きさとなりました。また、今も昔も盛岡山車では土台に欅造りの大八車を用いているのがポイント。車輪も木製で2輪のみ。小太鼓・大太鼓・笛・鐘のお囃子に、この大八車の軋む音が交ざり、山車を一層華やかにしています。

山車を運行し御華(お祝い)を頂戴したところでは山車を止めて7・7・7・5の名句をしたためた白扇を広げ、鍛え上げた美声で唄う「木遣り音頭」がいやがおうにも祭りを盛り上げます。
太鼓は「ひとつマッチャ」(歩き太鼓)、「ふたつマッチャ」(止め太鼓)、「みつマッ
チャ」(音頭を二つ続けて上げる時)、「四つマッチャ」(休み太鼓)、「早打ち」の5つがあります。

盛岡山車は昭和60年8月に盛岡市指定無形民俗文化財の指定を受けました。現在は南部火消伝統保存会に17の山車組があり、大八車も15台を所有。各組ごとに山車の組み上げ、製作の伝承にも努めています。

 

盛岡市指定無形民俗文化財 盛岡市教育委員会認定

南部火消伝統保存会 山車組 17組

は組 (1分団) 仙北町 と組 (13分団) 中野
め組 (2分団) 鉈屋町 た組 (14分団) 浅岸
一番組 (3分団) 馬町 や組 (15分団) 厨川
い組 (4分団) 八幡町 青山組 (17分団) 青山町
よ組 (5分団) 紺屋町 お組 (19分団) 太田
二番組 (6分団) 油町
本組 (7分団) 大沢川原
三番組 (8分団) 長田町 同好会関係
か組 (9分団) 新田町 盛岡観光コンベンション協会
み組 (10分団) 関口 城西組
わ組 (11分団) 前潟 盛山会さ組
な組 (12分団) 本宮 の組

 

 

裸参りについて

 

「裸参り」は古くから消防団が主体となり、毎年1月の中旬の厳寒期に地域の神社仏閣などで行われており、近年では企業や同好会などの参加もあります。
その始まりは藩政時代の約400年前、市内北山の「教浄寺」と云われています。
「教浄寺」の裸参りは「お阿弥陀さんの裸参り」として親しまれており、当時は旧12月14日の御年越しの行事として、1日だけ一般庶民にご開帳される本尊「阿弥陀如来」に願をかけることを目的に「裸参り」が始まったとされています(3年で満願成就とされている)。昭和50年以降は新暦の1月14日に定められ、現在に至っています。
幕末から明治維新の変動期は盛岡藩にとって最大の苦難の時代であり、教浄寺もまた庇護者を失って混乱の時期となり、伝統的な裸参りの習慣はなくなってしまいました。市民の間に裸参りの習慣が復活したのは明治の戦争期のころ。戦勝祈願や出征兵士の武運長久祈願が裸参りという伝統行事を復活させたようです。

現在の盛岡市で行われている裸参りは「無病息災」や「五穀豊穣」、そして「無火災」などを祈願し、厳寒の中、さらしを巻いた裸衆がお参りを行います。この光景は盛岡市の新年を代表する風物詩として広く定着しています。

隊列の順序や持ち物に関してはそれぞれの分団での様式に準じて行っていますが、さらしに剣台やゴボウを付けた裸衆が、露払いを先頭に団旗・纏・祈願幟・賽銭・供え物(餅・野菜・お酒・肴など)・挟みといった順でで行進を行います。

 

消防団関係裸参り日程
虚空蔵堂 1月12日 仙北町 盛岡市消防団 第1分団
教浄寺 1月14日 北山 盛岡市消防団 第4・6・10分団
八幡宮 1月15日 八幡町 盛岡市消防団 第4・5分団
酒買地蔵尊 1月(※) 材木町 盛岡市消防団 第8分団
浅草観世音 1月17日 新田町 盛岡市消防団 第9分団
桜山神社 1月26日 内丸 盛岡市消防団 第3・6分団
※1月の第2または第3土曜日

 

平成29年「裸参り」写真集

 

 

interview

盛岡市消防団第3分団所属 筆頭班長
小山田 正人(おやまだまさと)さん

 

団歴13年となる小山田さん。現団本部部長(当時・3分団分団長)の田村一夫さんと仕事を通じて知り合い、転職を機に田村さんのご自宅向かいに引っ越しました。田村さんのご自宅は屯所と隣合わせ。まさに小山田さんは屯所の向かいに引っ越したのです。「ならば消防団にも」という田村さんの誘いを受けて平成16年に入団。裸参りへの参加も連続13年となります。
田村さんは個人的にも付き合いの深い小山田さんを「鈍くさい男」と表現しますが、そんな彼をスパルタ訓練により4番員として立派に育て上げ、「盛岡市消防操法大会」では全29分団の頂点にまで昇りつめさせました。
本人も決して自ら前に出るタイプではなく、むしろ朴とつな感じの小山田さんですが、第3分団の団員であることに誇りを感じ、自分を育ててくれた田村さんをはじめ、第3分団のために献身的に活動に励んでいます。
「地域を守るため、仲間と共に精一杯活動を続けていきたい。入団以降ずっと欠かさず参加している『裸参り』でも、地域の安全・安心を祈年し、身体の続く限り参加を続けていきたいと思っている。また、第3分団(一番組)で出している『盛岡秋祭り』の山車の参加にも精一杯取り組んでいきたい」

 

 

■ここもチェック
盛岡市消防団ホームページ
http://www.mvfc.jp/

 

 


 

取材協力(写真・情報提供):盛岡市消防団[岩手県]

pagetop